神の子を信じる者たちに、神は、永遠の命を約束されておられます。 聖書の、ヨハネによる福音書第3章16節に記されてあります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
永遠の命は、イエスに信頼する者たちに与えられた賜物です。 聖書の、ヨハネの第一の手紙第5章11-12節に記されてあります。「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」。
イエスが二度目に来られる時に、わたしたちの未来が天国で始まります。 聖書の、テサロニケ人への第一の手紙第4章16-17節に記されてあります。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」。
再臨のときに、イエスはわたしたちを、彼のように完全にして下さいます。 聖書の、ピリピ人への手紙第3章20-21節に記されてあります。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身にしたがわせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。
聖書は、天国について何と言っていますか? 聖書の、ヨハネによる福音書第14章2-3節に記されてあります。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。
未来はわたしたちの理解しがたいところです。 聖書の、コリント人への第一の手紙第2章9節に記されてあります。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」。
イザヤは天国をどのように記述しましたか? 聖書の、イザヤ書第65章21-23節に記されてあります。「彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである」。
動物王国でさえも平和が行きわたります。 聖書の、イザヤ書第65章25節に記されてあります。「おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」。
身体障害はいやされます。 聖書の、イザヤ書第35章5-6節に記されてあります。「その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う」。
神は、彼の民と共に住み、死も、叫びも、痛みも、なくなります。 聖書の、ヨハネの黙示録第21章3-4節に記されてあります。「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。